2006.09.13 Wednesday
お蕎麦の香りの出し方について
「お蕎麦の香りを嗅いでみて下さい…」
ある日偶然、入ったそば屋で名物と言われている「粗碾き蕎麦」を注文すると、そう言ってお蕎麦を手渡された。
これには驚いた。
まず、そんな風に「蕎麦の香りを嗅ぐ」という行為が通常では「行儀のよい行い」とは到底思えないからだ。
それに今までそんな風にお蕎麦を手渡す店などどこを探しても過去には無かったからだ。
さらに驚いたのはそのお蕎麦から立ち上ってくる「香しき匂いだ」。
何と表現したら良いのだろう、どこか懐かしいような、いつか嗅いだ事のあるような香りなのだがそれがなんなのかは解らない。
さらに店員の説明は続く。
「まず塩で食べてみろ」と言われた。
『何を言ってやがんだ!蕎麦ってのはなぁ、まず最初はなぁんにもつけないで味わうものなんだよ!それは昔っから決まってんだ!そういう風に食べる事になってんだよ!』…と、思いつつ、そんな事は面と向かって言えないから「まずはなんにもつけないでいただきますね」・・・・・。
なかじんへおそばを食べに来られるお客様の中で、こう感じられた事がある方は少なくはないでしょう。
以前にも書きましたが、では「蕎麦の香り」とはいったいどんな香りなのでしょうか?
言葉ではなかなか表現出来ません。「蕎麦の香り」は『蕎麦の香り』だからです。
ですが「何の香りに似ているか」という表現ならしやすいはずです。
よく、あちこちのお店で「この蕎麦は香りがしない」とか「香りがいいねぇ」とか会話を耳にしますが、では「香り」とはどうやって感じるものなのでしょうか?
しょうじき言って一番手っ取り早いのは、直接匂いを嗅ぐ事です。
他に日本酒を勉強された事のある方なら解ると思いますが、口に含んだとき鼻に抜ける「含み香」、飲み込んだあとに喉の奥から戻ってくる「戻り香」があります。
そして大事なのが「音を立ててお蕎麦をすするという行為」。
ワインが好きな方ならよくご存知だとは思いますが、ワインの香りをよく感じるために「ワインを口に含んだあと、音を立てて空気を吸い込み、ワインと空気をよく触れ合わせて」香りを立たせます。さらには「ブクブクうがい」のようにグチュグチュさせる方も中にはおられます。
つまりは「おそばを食べる時に、より『空気と触れ合う食べ方』をすれば、より香りを感じやすいのだ」という事です。香りとはその「もの」の周囲の空気と激しく触れ合わせる事でより感じやすくなると言う事なのです。
お蕎麦の香りですが、何も決してなかじんの蕎麦だけが香っている訳ではありません。
試しに至るところのそば屋で器を手に取り、直接お蕎麦の香りを嗅いでみて下さい。
高い香りのする店、香りの無い店、わずかに香りのある店、小麦粉の香りの強い店…。さまざまです。それはその店の個性という事にもつながりますが、タイミングも非常に重要です。
なかじんでも正直、「香りの高い時」と「香りの弱い時」があります。
「高い」と「弱い」と表現したからには「強い」も「低い」もある訳です。「行き過ぎた香り」もあれば「ちょうどいい香り」もあり、感じ方は食べ手によって本当に様々なのです。香りの感じ方は一辺倒ではないのです。
それにお蕎麦を打ってから「どれくらい時間が経過しているか」によっても変わってきます。極端な例を挙げれば「開店直後」と「閉店間際」では微妙に香りも変わってくるものなのです。お酒やワインが熟成によって変わるのとよく似ていますね。
ソバの品種によってもお蕎麦の香りは違います。これもワインやお酒と一緒です。
ソバの品種は一説には100も200もあると言われています。実際はもっともっと多い事でしょう。有名な品種では「北早生」、「常陸秋そば」、「信濃一号」、「宮崎大粒」などなどありますが、ほとんどのソバは名前が無く、「どこどこ在来」というように地名のあとに「在来」とつけるソバも多いようです。
最近では「村おこし」で蕎麦をやる地方も多く、そのほとんどが有名産地から「美味しい」と言われる玄ソバを買って来て栽培したものも多いようです。傾向としてはよそから買って来たソバでも、3年間同じ畑で栽培すれば「在来種」と呼んでいるようです。
さらに複雑なのはソバは所謂「他花受粉」であり、すぐに交雑してしまうという事。ある農家が一生懸命育てて来た在来種でも、隣の熱血農家が良い品種を買って来てとなりの畑に栽培すれば、数年後にはその品種は今までのものとは違うものに変化してしまう可能性が高いという事実があります。
また、その蕎麦屋さんがどうしたいのか、どんな蕎麦をつくりたいのか、という見解によっても変わってきます。玄そばから製粉するのか、丸抜きから製粉するのか(玄そば=殻つきのままのそばの実、丸抜き=殻をきれいにむいたそばの実)、はたまたその歩留まりはどうするのか?石臼の回転数はどのくらいにするのか、そば粉は粗く碾くのか、きめ細かく碾くのか…などなど、数え上げていったらキリがないほど条件はあります。
そしてそのそば屋の技術的な問題。水回しの技術、伸しの技術、包丁の技術、保管の技術、茹での技術、洗いの技術、シメの技術、盛りつけの技術などなど、これも数え上げていったらキリがありません。
それに付随して、そばの粗さ。粗碾きを寝かせる理由のひとつとして、「水分の安定に理由がある」と僕はよく言います。水分が落ち着くと麺は締まります。その分粗い粒が麺の周りに隆起してきて、所謂「空気との摩擦が多くなる形状となり、香りが出やすくなる」のだと思っています。まぁ、その分そばは切れやすくなってしまうんですがね。
と、「香りの出る要素」というのはひとつではありません。
ほかにも理由は100も200もあるのです。
僕はいままでなかじんで修業して来た子らにこうも言ってきました。
「世の中はすべてバランスで整っている、バランスを巧くとれるようになる事が大切である」と。
つまりは100も200もある「香りの出る要素」すべてにアンテナを張り巡らせ、バランスを取っていく事が大切なのです。
最近僕がよく人に話す事柄に「料理」の意味を問います。
「料理」とは食べ物の事を差したり、食べ物を拵えたりする時に使う言葉ですが、それならばなぜ、「食」や「味」という漢字が含まれていないのでしょうか?
僕の見識では「料理の料は材料の料」、「料理の理は理解の理」と若い子らに教えます。
つまり料理人がその「材料をどれだけ理解しているか」ということで料理の出来映え、味、香りが変わってくるという事なのです。
もちろんすべての事を知る事は不可能ですし、間違って覚えている知識もあるでしょう。それでも「少しでも努力する」事が大切なのです。
「どうしてこんな香りが出るんですか?」
なかじんではよく、こう聞かれます。僕は
「愛情です」
と、答えます。
ひと言で答えるのは非常に難しいです。
なぜならば今日、お話しした事柄も「香りの出る要素」としてはホンの一部に過ぎないからです。
「人のやらない事をやる」、僕はこうも言います。
人が『もうこの辺でいいだろう…』とか『そんな事までできないよ』と思う事を「バカになってやる!」これが秘訣ですかね。
とにかく多くの知識を学んで、すべき事はとことんする。
『中途半端はしない』事が大事なのです。
これは人生の様々な事柄に通じています。
僕が昔、音楽をしていた頃、とある方にこう言われました。
「どんなに良いメロディが浮かんでも、その前後がつながらなければ曲は完成しないのだよ」と。
話はそれましたが、僕はいつでも「少しでもお客様に喜んでいただきたい、驚いていただきたい、幸せを感じていただきたい」という気持ちで一杯です。
人には波長があり、「合う」、「合わない」はどうしてもあります。
有名になってしまった粗碾きそばも、人によっては(その人にとって)タイミング的に熟成が深すぎたり、あのザラつき感がイヤだったり、短く切れてしまったお蕎麦はそばとして許せない方など、万人に受ける訳ではありません。
なかじんの店の雰囲気が嫌いな人。お料理も一緒にしている事が許せない方。果ては僕の顔が見るだけでイヤな方(笑)。人はさまざまです。
すべて100%網羅する事は不可能ですが、少しでも多くの方に喜んでいただけるように今まで頑張ってきました。それだけの事なのです。
このログをまとめて書く時間が無く、少しずつ、時間のある時に書きましたのでつぎはぎな文章になってしまった事をお許し下さい。まとまりがありませんがこの辺でシメたいと思います。
自分が食べて美味しいと感じる料理をお客様に食べてもらいたい。
そのために寝る間も惜しんで努力する。
僕の愛情を感じていただける方が増えて下されば、それだけで幸せなものです。
ある日偶然、入ったそば屋で名物と言われている「粗碾き蕎麦」を注文すると、そう言ってお蕎麦を手渡された。
これには驚いた。
まず、そんな風に「蕎麦の香りを嗅ぐ」という行為が通常では「行儀のよい行い」とは到底思えないからだ。
それに今までそんな風にお蕎麦を手渡す店などどこを探しても過去には無かったからだ。
さらに驚いたのはそのお蕎麦から立ち上ってくる「香しき匂いだ」。
何と表現したら良いのだろう、どこか懐かしいような、いつか嗅いだ事のあるような香りなのだがそれがなんなのかは解らない。
さらに店員の説明は続く。
「まず塩で食べてみろ」と言われた。
『何を言ってやがんだ!蕎麦ってのはなぁ、まず最初はなぁんにもつけないで味わうものなんだよ!それは昔っから決まってんだ!そういう風に食べる事になってんだよ!』…と、思いつつ、そんな事は面と向かって言えないから「まずはなんにもつけないでいただきますね」・・・・・。
なかじんへおそばを食べに来られるお客様の中で、こう感じられた事がある方は少なくはないでしょう。
以前にも書きましたが、では「蕎麦の香り」とはいったいどんな香りなのでしょうか?
言葉ではなかなか表現出来ません。「蕎麦の香り」は『蕎麦の香り』だからです。
ですが「何の香りに似ているか」という表現ならしやすいはずです。
よく、あちこちのお店で「この蕎麦は香りがしない」とか「香りがいいねぇ」とか会話を耳にしますが、では「香り」とはどうやって感じるものなのでしょうか?
しょうじき言って一番手っ取り早いのは、直接匂いを嗅ぐ事です。
他に日本酒を勉強された事のある方なら解ると思いますが、口に含んだとき鼻に抜ける「含み香」、飲み込んだあとに喉の奥から戻ってくる「戻り香」があります。
そして大事なのが「音を立ててお蕎麦をすするという行為」。
ワインが好きな方ならよくご存知だとは思いますが、ワインの香りをよく感じるために「ワインを口に含んだあと、音を立てて空気を吸い込み、ワインと空気をよく触れ合わせて」香りを立たせます。さらには「ブクブクうがい」のようにグチュグチュさせる方も中にはおられます。
つまりは「おそばを食べる時に、より『空気と触れ合う食べ方』をすれば、より香りを感じやすいのだ」という事です。香りとはその「もの」の周囲の空気と激しく触れ合わせる事でより感じやすくなると言う事なのです。
お蕎麦の香りですが、何も決してなかじんの蕎麦だけが香っている訳ではありません。
試しに至るところのそば屋で器を手に取り、直接お蕎麦の香りを嗅いでみて下さい。
高い香りのする店、香りの無い店、わずかに香りのある店、小麦粉の香りの強い店…。さまざまです。それはその店の個性という事にもつながりますが、タイミングも非常に重要です。
なかじんでも正直、「香りの高い時」と「香りの弱い時」があります。
「高い」と「弱い」と表現したからには「強い」も「低い」もある訳です。「行き過ぎた香り」もあれば「ちょうどいい香り」もあり、感じ方は食べ手によって本当に様々なのです。香りの感じ方は一辺倒ではないのです。
それにお蕎麦を打ってから「どれくらい時間が経過しているか」によっても変わってきます。極端な例を挙げれば「開店直後」と「閉店間際」では微妙に香りも変わってくるものなのです。お酒やワインが熟成によって変わるのとよく似ていますね。
ソバの品種によってもお蕎麦の香りは違います。これもワインやお酒と一緒です。
ソバの品種は一説には100も200もあると言われています。実際はもっともっと多い事でしょう。有名な品種では「北早生」、「常陸秋そば」、「信濃一号」、「宮崎大粒」などなどありますが、ほとんどのソバは名前が無く、「どこどこ在来」というように地名のあとに「在来」とつけるソバも多いようです。
最近では「村おこし」で蕎麦をやる地方も多く、そのほとんどが有名産地から「美味しい」と言われる玄ソバを買って来て栽培したものも多いようです。傾向としてはよそから買って来たソバでも、3年間同じ畑で栽培すれば「在来種」と呼んでいるようです。
さらに複雑なのはソバは所謂「他花受粉」であり、すぐに交雑してしまうという事。ある農家が一生懸命育てて来た在来種でも、隣の熱血農家が良い品種を買って来てとなりの畑に栽培すれば、数年後にはその品種は今までのものとは違うものに変化してしまう可能性が高いという事実があります。
また、その蕎麦屋さんがどうしたいのか、どんな蕎麦をつくりたいのか、という見解によっても変わってきます。玄そばから製粉するのか、丸抜きから製粉するのか(玄そば=殻つきのままのそばの実、丸抜き=殻をきれいにむいたそばの実)、はたまたその歩留まりはどうするのか?石臼の回転数はどのくらいにするのか、そば粉は粗く碾くのか、きめ細かく碾くのか…などなど、数え上げていったらキリがないほど条件はあります。
そしてそのそば屋の技術的な問題。水回しの技術、伸しの技術、包丁の技術、保管の技術、茹での技術、洗いの技術、シメの技術、盛りつけの技術などなど、これも数え上げていったらキリがありません。
それに付随して、そばの粗さ。粗碾きを寝かせる理由のひとつとして、「水分の安定に理由がある」と僕はよく言います。水分が落ち着くと麺は締まります。その分粗い粒が麺の周りに隆起してきて、所謂「空気との摩擦が多くなる形状となり、香りが出やすくなる」のだと思っています。まぁ、その分そばは切れやすくなってしまうんですがね。
と、「香りの出る要素」というのはひとつではありません。
ほかにも理由は100も200もあるのです。
僕はいままでなかじんで修業して来た子らにこうも言ってきました。
「世の中はすべてバランスで整っている、バランスを巧くとれるようになる事が大切である」と。
つまりは100も200もある「香りの出る要素」すべてにアンテナを張り巡らせ、バランスを取っていく事が大切なのです。
最近僕がよく人に話す事柄に「料理」の意味を問います。
「料理」とは食べ物の事を差したり、食べ物を拵えたりする時に使う言葉ですが、それならばなぜ、「食」や「味」という漢字が含まれていないのでしょうか?
僕の見識では「料理の料は材料の料」、「料理の理は理解の理」と若い子らに教えます。
つまり料理人がその「材料をどれだけ理解しているか」ということで料理の出来映え、味、香りが変わってくるという事なのです。
もちろんすべての事を知る事は不可能ですし、間違って覚えている知識もあるでしょう。それでも「少しでも努力する」事が大切なのです。
「どうしてこんな香りが出るんですか?」
なかじんではよく、こう聞かれます。僕は
「愛情です」
と、答えます。
ひと言で答えるのは非常に難しいです。
なぜならば今日、お話しした事柄も「香りの出る要素」としてはホンの一部に過ぎないからです。
「人のやらない事をやる」、僕はこうも言います。
人が『もうこの辺でいいだろう…』とか『そんな事までできないよ』と思う事を「バカになってやる!」これが秘訣ですかね。
とにかく多くの知識を学んで、すべき事はとことんする。
『中途半端はしない』事が大事なのです。
これは人生の様々な事柄に通じています。
僕が昔、音楽をしていた頃、とある方にこう言われました。
「どんなに良いメロディが浮かんでも、その前後がつながらなければ曲は完成しないのだよ」と。
話はそれましたが、僕はいつでも「少しでもお客様に喜んでいただきたい、驚いていただきたい、幸せを感じていただきたい」という気持ちで一杯です。
人には波長があり、「合う」、「合わない」はどうしてもあります。
有名になってしまった粗碾きそばも、人によっては(その人にとって)タイミング的に熟成が深すぎたり、あのザラつき感がイヤだったり、短く切れてしまったお蕎麦はそばとして許せない方など、万人に受ける訳ではありません。
なかじんの店の雰囲気が嫌いな人。お料理も一緒にしている事が許せない方。果ては僕の顔が見るだけでイヤな方(笑)。人はさまざまです。
すべて100%網羅する事は不可能ですが、少しでも多くの方に喜んでいただけるように今まで頑張ってきました。それだけの事なのです。
このログをまとめて書く時間が無く、少しずつ、時間のある時に書きましたのでつぎはぎな文章になってしまった事をお許し下さい。まとまりがありませんがこの辺でシメたいと思います。
自分が食べて美味しいと感じる料理をお客様に食べてもらいたい。
そのために寝る間も惜しんで努力する。
僕の愛情を感じていただける方が増えて下されば、それだけで幸せなものです。